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    香道の歴史

     

    香木に関する歴史上の記述は、飛鳥時代(592~710年)の595年、 淡路島の浜辺に大きな香木の幹が流れ着いたというものに始まります[1-4]。それを見つけた島の人々は、ただの流木と間違い薪としてかまどに投げ入れた ろころ、たちまちかぐわしい香りが立ち込めたのでした。それに驚いた人々は、この木を推古天皇に献上することにしました。そこに居た摂政の聖徳太子は、た だちにその木片を香木と理解したということです。仏教が日本に伝来したのは、この出来事に先立つ538年です。当時、聖徳太子が仏教普及に努めていたこと、香木は仏教儀式に欠かせないものの一つで、後に仏教儀式での香木の使用を示す記述が見られることから考えても、この当時、日本の香の歴史は既に始まっていたと推測できます[1-4]。

     

    奈良時代(710~794年)には、練香(香木、麝香、乳香、桂皮などの天然の香料の粉末を混ぜ合わせて丸めて熟成させたもの、これを炊いて用いる)の製法が鑑真和尚により752年に伝えられたました。彼は、仏教の正式な授戒を伝えるために6度の渡航の試みを経て日本へ到着し、仏教だけでなく、薬草の使い方なども伝えています。この当時の香は、仏教と切り離せないものでした[3]。

     

    平安時代(749~1192年)には、貴族が楽しみのために練香を調合するようになりました。この 時代には、国風文化といわれる様に日本風の優美な文化を連想しますが、初期には唐風文化がもてはやされていました[1-4]。この時代の香は、唐文化に学 んだもので、練香調合の秘密を知ることは教養の証でした[2]。季節ごとに決まった調合の配分があり[1]」、各自配分をわずかに変えてその優劣を競いま した[1,2]。また、その練香に詩を添えて人に贈ることも多かったようです[2]。

     

    鎌倉時代には、朝廷、貴族、僧の多い文化の中枢である京都から遠く離れた鎌倉で、武士が独自の文化を作りあげていきます。その結果、禅の影響などを多く受けながら、素朴で質実、写実的な文化が形成されます。

     

    南北朝(1333~1392年)と室町(1338~1573年) 時代には、京都に幕府が置かれ、再び文化と政治の中心となります。この時代の京都はあらゆる階層の人をひきつけ、都では窃盗や喧嘩や果し合いなどが多く見 られるようになります。下克上の気質が強く、階級の上下間の争いが数多く起こりました。足利義満が金閣寺を建造し、武士の優位性を示したことにも象徴され るように、鎌倉時代に力を蓄積した武士が貴族文化に対抗し、同時に貴族化していきました。香道は、この戦の多い不安定な時代に、応仁の乱(1467~1477年) の後に成立します。荒れ果てた京の都で、人間の命、権力の儚さを痛感した人々は、将軍の地位を息子に譲った足利義政の下に身を寄せ合いました。そこには、 貴族、僧、町人、武士、芸人とありとあらゆる階層の人々が見られました。そこから、今でも日本の伝統芸能としてあげられる、茶道、華道、香道、連歌、作 庭、音曲、そして、現代の日本人の持つ季節感や美意識の根幹を成す哲学が生まれていったのでした[2]。悲痛な出来事の多い時代を過ごした人々は、まさ に、人生の一瞬一瞬を生きようとする芸術を生み出したのです。

     

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    人々は、東山に造られた四畳半の間にこれらの芸能を嗜むために集いました[2]。四畳半はまた方丈の間ともいい、仏教の禅の修行を行う場という意味 です。義政は東山に作ったこの間を「同仁斎」と命名しました。この言葉は仏教と儒教に見られる言葉「一視同仁(あらゆるものはそれぞれ等しい価値を持 つ)」を基にしています。義政はこの名前を通して、身分の上下を含めて、世間とのつながりを一切外に置いてこの方丈の間に入るように、道の前には誰も等し いものとしてこの部屋にあることを我々に伝えています[1]。日本の伝統芸能を嗜むに当たって重んじられる精神が、世俗を脱し、無心となることなのです。

     

    義政の周辺には、古典文学と茶に精通した村田珠光(14221502年)、香道御家流の創設者三条西実隆(14551537年)、香道志野流の創設者志野宗信(14411522年) が居ました[1,2,4]。実隆は当代きっての学者で、文学に精通し、宮中の香の集まりを任される存在でした[1,2,4]。志野宗信は、この実隆から香 を学び、足利家に伝来していた香木の選定、及び、今でも語り継がれる「名香六十一種」の選定などを任されています[2]。この際に、「六国」、「五味」と して知られる香木の分類方法を考案しました[2]。

     

    聞香の方法でも、この時期に雲母の薄い板でできた銀葉が登場したことによって、香木の小片を柔らかく均一に加熱し、微妙な温度調整が可能となります。これによって、香木の一木ごとの微妙な香りを奥深く鑑賞することが可能となったのでした[2,4]。

     

    その後、一木ごとに命名された香木を持ち寄り炷き合わせる催しが考案されていきます[2,4]。東山山荘で1478年の11月には6種の練香をたき合わせる会「六種薫物合」が、1479年には6種の香木を炷き合わせる会「六番香合」が催されています。1502年には、志野宗信宅で10種類の香を炷き合わせる会「十番香合」が開催され、当時の文化人が参列しています[2,4]。

     

    これらの十炷香、香合せ、炷継香が、後に香道の主流となる組香への流れをつくることになります[4]。連歌の思惟形式が炷継香の底流となっただけで なく、中世以降の歌学により磨かれた美意識が、組香の素材である香木の美を鑑賞し評価する骨格を作り上げていったのでした[4]。

     

    江戸時代(16031868)以降から現代まで、組香と一炷香(一木の香りを鑑賞する)のみが嗜まれています[4]。

     

    (石井-フォレ 暁子 著)

     

    参考:

    [1] 「香と茶の湯」、太田清史、淡交社、京都、2001.

    [2] 「香三才ー香と日本人のものがたりー」、畑正高、東京書籍、東京、2004.

    [3] 日本の香り、松栄堂監修、コロナブックス編集、平凡社、東京、2008.

    [4] 「香道入門」、淡交ムック、淡交社、京都、2010.